1手の種類 [雑感]

ゲームにおいて、プレイヤーは手番に何かしらの手を打つ。
ゲーム毎によって手番に打てる手の種類には大きな開きがあるが、ドイツゲームはこの打てる手の種類をうまく狭めている気がする。
例えば、伝統ゲームとして将棋。初期配置から打てる手の種類は30種。囲碁にいたっては19×19の打てる場所がある。
それに比べてドイツゲームは単純なものにいたっては2択3択といった数の少なさ。例えばコロレットなら、めくるか引き取るか、めくるならどの列にカードを足すか。また多くても10種弱であろう(もっとも、その先の変化があるので単純に少ないとは言えないが)。
この打てる手の少なさがドイツゲームの魅力ではないか?と最近思い始めた。打てる手の多いものはどうしても初心者には取っ付きが悪い。どうやっていけばいいか指針が見えづらい。その点ドイツゲームは比較的選択肢が少ない。少ないがゆえにその先の変化を考えやすい。
手の種類の少なさは、うまく乱数を取り入れて固定化しないように配慮されているため、定石というものが出来にくい。もちろん、こういう状況ならこう、という指針は出来るだろうけれど。
ゆえに、ドイツゲームは舶来ものという敷居の高さこそあれ、一度始めてみれば、思いのほか難しくない、という印象を持たれるはずだ。
思うに、この1手の多さ、というのは難しさのレベルを上げ、初心者にはとっつきにくさを持たせるものだと思う。少なくなれば少ないほど明確さが増し、わかりやすくなる(伝統ゲームは既に広まっているのでそれほど敷居は高くないかもしれないが、定石がある程度できているので強くなるには勉強が必要だろう(これはどんあゲームでも一緒だけれど))。
ドイツゲームはこの1ての種類をうまく少なくしたこと。モチーフとゲーム内容がうまく溶け込んでいることが、非常に優れていると感じるのだ。

カード訳シール [雑感]

ボードゲームを始めた頃、カードの訳のシールを、カードに直接貼るのがどうも嫌だった。
シールの白い部分がカードとの境界をくっきりとさせ、かつテキストの部分に訳だけ日本語のアンバランスさが受け付けられなかったのだ。
だから、カードにテキストがあるものは、最初ほとんど購入することがなかった。

だんだんゲームに慣れてきて、一段ステップアップしたくなった時、このカードのテキストは避けては通れず、結果テキストがあるものも買うようになったのだけれど、カードにシールを貼ることを良しとせず、対訳表でプレイする、ということをしていた。遊びやすくはなかったが、それが自分のポリシーだったのだ。

時は流れ、最近になって、少しその考えを改めた。テキスト有のゲームが豊富に出るようになったこともあるが、自分のこのつまらないポリシーのために、ゲームをつまらなくさせてしまってはいないか?と思うようになったのだ。

アグリコラやル・アーブル、ドミニオンといったテキスト満載のゲームで対訳表とにらめっこではあまりに効率が悪いし、テンポも落ちる。そういった作業で、ゲーム本来の持つ面白さを殺してしまっていたらもったいないではないか。

シールを貼ると、どうしてもカードの厚みが増したり、裸で遊ぶとシールが擦れてしまい、訳が消えてしまうので、スリーブは必須だが、最近ではカードサイズに合ったスリーブを手に入れることが出来る。

外国で作られている以上、テキストが外国語なのはどうしたって避けられない。日本語版が早々に出てくれるものなら多少の誤訳があろうとも、そちらを買うということも出来る。が、全てのゲームが日本語化されるなんていうことはありえまい。ならば、ゲーム本来の面白さをより引き出すためにもカードにシールを貼ることをためらう理由はあるまい。

一番いいのは、たとえ時間がかかろうとも、カードをスキャンし、文字だけ日本語化してカラーで貼り付けられれば一番なんだろうけれど・・・。
それだけの時間を使えない以上、たとえ見栄えは悪くなろうとも、今後は遊びやすさを重視したい。

文章の読み取り方、自分の考えを文章にすることの難しさ [雑感]

こうやって文章を書くとき、自分の考えを文章にすることの難しさを痛感する。
文才ある身ではないので、例え短文であろうと、つい筆が止まってしまうことが多々ある。

こうして記事に載せる、ということは、不特定多数の方が見る可能性があるわけで。
自分の中では、ここに書き連ねた文章は、あくまで自分の備忘録的な扱いとして書いているわけだけれど、ここを見た人からすれば、書かれた記事は情報として受け止められる、という難しさを感じる。

同様に、他の方が書いた記事を見て、それをその人が思っている通りに受け取れるか、という難しさも感じている。文章からでは、細かなニュアンスがうまく捕らえきれず、少しピントがずれて受け止めてしまうこともあるようだ(少しならまだしも曲解してしまったら・・・と思うと少し怖い)。

読み取ること、書く事、いずれにせよ難しい。
書かれた記事はよく読む、書く記事はしっかり見直す、今年の課題としたい。

ドイツゲームは真剣勝負には向かないのか? [雑感]

昨日に続いて雑感。
今日、ここであげているコメントに対して、他意はなく、あくまで個人的な感想として書いていることを先に述べておきます。

mixiのつぶやきに、こういったものがあった。

『歴史のある伝統ゲームではない、いわゆるドイツゲームなどには真剣勝負に耐えられるだけの性能や奥深さは無いと思う。』

果たして、そうなのだろうか?
確かに、ドイツを代表するドイツゲーム(いわゆるユーロスタイル)の歴史は浅い。たかだか何十年といったところだ。だからといって、真剣勝負に向かないとか、奥深さがないとは言い切れまい。
たまたま、ドイツゲームの生まれたのが近代というだけで、今後時を重ねていっても遊び継がれていくゲームはあるはず。確かに囲碁や将棋、チェスといったゲームには歴史があるが、チェスにいたってはコンピュータにプロが負けるといったこともあったし、将棋でも女流棋士がコンピュータに負けている。そういったご時世に真剣勝負をやりたければ伝統ゲームで、といっても”?”という気がする。いずれ、こういった伝統ゲームもコンピュータに勝てなくなる、という状況が来るのは見えていて、そうであるが故、伝統ゲームこそ真剣勝負に足るものだ、というのはどうかと。ドイツゲームも手筋の豊富なものは何処から手を付けていいのかわからなくなるものも多い。解析が進んで、最適手が決まってしまったゲームというならいざ知らず、まだ未知の物に対して、そう断言するのはどうだろうか?
人と人とが競うのであれば問題ない、というのは確かに一理あるが、ボードゲームで真剣勝負をしたい人は、勝負にのみこだわっているのか?という疑問もある。
僕もボードゲーム好きの一人として書かせてもらうのなら、ボードゲームで競い合いたい人、というのは、そのボードゲームの持つ、フレーバー(世界観、雰囲気)、人と人とのやりとりの面白さをも楽しみたいと思っているのではないか?
だから、真剣勝負はそういった伝統ゲームで、といわれても興味の対象にないのだから、そもそものゲームにならない。

ドイツゲームに代表するゲーム群は、様々な事象をうまくシステム化している物がほとんどだ。
遊ぶ人にとってはそういった世界観を楽しみつつ競い合うことが出来るのが魅力であって、抽象的な事象ではのめりこむことは出来ないと思うのだ。

同じ方はこういったコメントもされている

『誰でも手軽にゲームの楽しさを味わえるのがドイツゲームの良いところだったのではないのか?』

ある意味これはその通りだと思う。が、全てではないとも思う。
ドイツゲームの世界は手軽に楽しめるものから、ゲーマーズゲームと分類されるような、初めてこういったゲームを遊ぶ人には難度が高いものを含め幅広くある。
言い方を変えれば、幅広いプレイヤーに対応できるだけのゲームの種類がある、ということ。

それは現在までに発売されたドイツゲームの数をみれば明らかだし、発売されて何年もリメイク再販を繰り返している作品があることからもわかる。

さて、ここで、タイトルに戻る。
ドイツゲームは真剣勝負に向かないのか?
僕の考えはこうなる。

ゲームによる(苦笑)・・・こうしか答えようがない、と思う。

ドイツゲームのどんなものも真剣勝負が出来るとは思っていないし、真剣勝負に向いていないとも思っていない。推奨年齢の高いゲームなどは十分思考しなければ勝利は微笑まないし、逆にいわゆる子供向けのゲームではランダム要素が高すぎて真剣勝負にならないこともあるだろう。

昨日も書いたが、僕のスタンスはゲームは楽しむのが第一。なので、ゲームを始めればもちろん勝利を目指すが、基本はいかに楽しむか。
楽しまなければゲームをする意味がないし、楽しんだ先に勝利が付いてきたなら、それは最高のひと時ではないだろうか?(もちろん負けることもあるが、ゲームを楽しんだ人が最高の勝利者だと信じている)。

勝利を目指すのか?、楽しむことを目指すのか? [雑感]

新潟ボードゲーム倶楽部の昨日(1/5)の記事から
http://nbgc.blog63.fc2.com/blog-entry-380.html

新年になって、ボードゲームサイトでは色々な記事が掲げられているようで、気になったところをピックアップ。

最近のゲームの傾向からライトゲーマーが増えてきた、ということなのだけれど、さて・・・。
僕の考えとして、どんな趣味でも、裾野が広がってくるとどうしても、この、ちょっとかじってみた的な人が増えてくるのは仕方のないことで。そういった人たちは、どうしたって、いきなり難しいものになじめるはずもなく、ライトなものからその趣味の世界に入ってくると思う。
で、その覗いてみた世界が自分の性にあえばより深く知ろうとするし、自分から情報を集め、だんだんとディープな世界に入ってくるだろう。もちろん逆に合わなければ、そこでおしまいだと思う。そうやって深く知ろうとするか、浅い世界で遊ぼうとするかは人それぞれで、別段珍しいことでもなく。いつの世界でも繰り返されてきたこと。
ボードゲームだけがそれを免れるはずもないのだから、ライトユーザーが増えようとも、ヘビーゲーマーが減ろうとも、それは仕方のないこと。でも、こういった間口が広がるということは、その分新規に深く知ろうとする人、重いゲームを遊んでみたい、遊ぶ、という人も増えるだろうから、ライトユーザーが増えるペースよりは落ちるだろうけど、必ずヘビーゲーマーも増えると思う。もっとも、ライトユーザーが増えることによって肩身が狭くなって、抜けてゆくヘビーゲーマーもいるかもしれないが。

僕は基本ゲーム『好き』、であるので、ヘビーゲーマーだとは思っていないけれど(でも、おそらく世間の人からすれば十分ヘビーゲーマーなのかもしれないけど(苦笑))、遊ぶからには当然勝利は目指すが、まずはゲームを楽しむことが第一目標。一緒に遊んでくれる人たちにも、もちろん色々な人が居て、勝利至上主義な人、一緒に遊ぶことが目的な人、ゲームを楽しみたい人・・・。人間、考え方は人それぞれなので、参加する人にこうあるべき、などと意見する気はないが、一緒に遊ぶ人を不快な気分にさせなければ、それでいい。

今のこのご時世、一緒の卓を囲んで遊べる仲間がいる、それだけでも幸せなことだと思う。
人と人とが己の思考を競って遊べるボードゲーム。目的は人それぞれなれど、その時間こそ貴重だと思う。


新年を迎えて [雑感]

新しい年を迎えました。
今年も出来るだけたくさんのゲーム、映画、本に得あいたいものです。出来るなら新しい人脈も出来るといいなぁ。

ゲームの方は随分積みゲーがたまってますが、まぁ、仕方ないですね。購入量と遊ぶ量のバランスが悪いのはわかってるのです。でも、つい、買いそびれて絶版にになった事を考えて買ってしまうんですよね。
少しずつでもこなしていくよう頑張ろう。
レポートも遊んだゲーム全部、書いておきたいんですが、なかなか時間が取れない状況。今年は昨年以上に仕事が増えそうなので、ちょっと戦々恐々してます。救いは比較的土日は自由が利く職場(基本休日出勤はない(2ヶ月に1日くらい))なので、ゲーム会には極力参加で数をこなして行きたいです。

映画も同様。昨年はおそらく100本近く観れたので、今年度も目標最低50本で(劇場で)。

本は読むペースが遅くなっているので、もう少しペースアップしたいところですが、どうなることか?

何はともあれ、昨年以上に頑張って行きたいと思います。

2010年を振り返って [雑感]

1年というのはあっという間で、今年もあと残すところ数時間。
5月から書きはじめたこのブログも、ありがたいことに延べ50000人の方が閲覧して行ってくれました。
役に立った記事、立たなかった記事(大半はこっちか?(苦笑))あったことかと思います。
あくまで、自分の記録として残そうと思って始めたブログなので、映画については内容は自分の頭の中に。記事にしたのはそれを思い出すキーワード的なものにとどめました。ゲームについては、そこそこ細かく記事にしましたが、それでも抜粋の域を出ず、細部については言及していない部分も多々あったはずです。

映画も、ボードゲームも、今の自分にとっては大切な趣味になっているので、自分の自由が利く間(出来ることなら死ぬまで)は続けたいし、そうありたいと思っています。
どちらも今年はたくさん観て遊びました。中には自分の中の歴代上位に入るものもあったし、逆にワーストになるものもありましたが、映画もボードゲームも嗜好品。自分で体験せずに判断は出来ないと思うので、こういった幅があるのはよい経験になったと思います。

来る2011年も、たくさんの映画やゲームと出会い、また、この趣味を通じて新しい出会いがあれば、これに勝るものはないでしょう。それでは、ここを見ていてくれた皆さん、よいお年を~。

マジック・ザ・ギャザリングとドミニオン、世界の七不思議 [雑感]

マジック・ザ・ギャザリング(以下MTG)というトレーディングカードゲームがある。もうすでに15年位昔にアメリカで誕生したこのゲームは、カードゲームでありながらトレーディングカードの土台を持ち、ゲームとしても当時として出色の出来だった。なにせ現時点においてカード種類が10000種程あり、さらに年々増え続けている。基本となるルールはあるが、カード効果はその基本ルールを覆すものが多く、追加セットが出るたびにルールも増えている。このゲームの驚くべきところは、各プレイヤーが各自でカードを購入し、自分でデッキと呼ばれる自分専用のカードセットを作り、それを用いて対戦すること。購入すればするほど、選択できるカードの種類は増え、強くなっていく。購入してもらえれば、当然メーカーの利益になる。こういった上手く出来た構造が後発のゲームを多数世に出る一因となった。また、MTGにはこういったデッキを組んで対戦する以外にも遊び方がいくつかあって、ブースターと呼ばれる拡張パックを持ち寄って輪になり、プレイヤーはそのブースターのパックから1枚選んで取り、隣の人にまわしていく、というブースタードラフトというものがあったりする。ここまで書くと察しが良い人にはピンと来るかと思うけれど、ここ最近のドミニオンを筆頭にしたデッキビルディングゲームや、今年のエッセンの新作一番人気である世界の七不思議はこのMTGの影響からは無縁とは言えまい。

ドミニオンはデッキ構築ゲームである。これはMTGで言うところの自分のデッキを組み立てていく過程をゲームにしたもの。そして世界の七不思議はMTGのブースタードラフトのドラフト部分に焦点を当ててゲームにしたもの。
これらは見た目上はあきらかにMTGとは別ゲームであるけれど、MTGの一部分をメインにゲーム化した枝分かれ構造のものと考えられる。

ドミニオンも世界の七不思議も非常に良く出来たゲームだ。そしてそれには親があり、それがMTGだと思うと、MTGのゲーム世界に与えてきた影響力というのは想像以上に大きく、そして偉大なものだったんだなぁ、と感じずにはいられない。世界広しといえど、プロプレイヤーが存在するゲームは多くはない。MTGはその中の一つであり、今後も世界を拡大し、新規ユーザーを取り込んでいくのだろう。
そして、そんなMTGから離れていったプレイヤー達は、このドミニオンや世界の七不思議にMTGの面影を感じつつ遊ぶのだろう。
ゲームの一部がさらに新しいゲームの元となる。ゲームの世界にはまだまだ広がっていく余地がある。そう感じずにはいられない。

ドミニオンの功罪 [雑感]

ドミニオンは良いゲームだと思う。が、僕にとっての最良ではない。
現在のボードゲーム界(主にカードゲーム)は、ドミニオン前とドミニオン後と言っても良いほど環境が変わってきていると思う。

ドミニオン前、カードは1つ、もしくは複数の共通の山札から引くゲームがほとんどだった。
が、ドミニオン後はプレイヤー1人1人が自分の山札を持ち、自分のデッキを組んでいくゲームが一気に増えた気がする。国産物でも、たんとくおーれやばるばろっさ、くにとりっ、と拡張を含めいくつか出ており、これが海外に目を向ければ、さらに多くのタイトルがあるだろう。

カードゲーム業界は過去、マジック・ザ・ギャザリング(以下MTGと略す)の登場によってトレーディングカードゲーム(以下TCG)というジャンルを作り隆盛を誇った。プレイヤーが自分の山札を膨大な種類のカードの中からセレクトして作り、それを元に対戦する、というアイデアは瞬く間に世界に広まり、いくつものTCGが作られていって消えていった。

TCGはプレイヤーには優しくないゲームで、が、メーカーにとっては、毎年拡張セットを出すことによって収入がある程度見込める、というものだ。毎年レギュレーションを変えることにより、使えるカード、使えないカードが変わって行く。こうすることで、プレイヤーは拡張セットを買い続けることを余儀なくされ、新しい環境は確かに面白さを提供してくれるが、けして安いものではない。

古参、新参、雑多な人が互いのデッキ構築技術、プレイスキルで戦う。そして、遊ぶためには最低自分を含め2人いればよい。マルチプレイゲームと違い、最少人数で遊べるので、、システムとして非常に現代にマッチしていたといえるだろう。

さて、こういった環境から離れるには、大きな決意がいる。仲間からの離脱を意味するこういった現役引退はTCGにおいては避けては通れない(もちろんいまだ現役で遊んでいる人もいるかもしれないが)。

そんな時、このドミニオンは現れた。
必要なものはベースとなるセットのみ。ルールはシンプルで、場のカードを入れ替えることにより何度でも遊べて、プレイ時間もそんなに長くない。繰り返しプレイにも耐え、必要と思わなければ、拡張セットも買う必要がない。これはカードゲームのエポックメイキングといえる。

ドミニオンのすごいところは、基本のカードセットだけで何度でも繰り返しプレイを楽しめることにある。
25種あるカードサプライは毎回ランダムで10種選ばれ、それがゲームの舞台となる。これがミソで、1ゲーム遊ぶ間、残りのカードは使わないのだ。今までのゲームでは基本的に無駄な、使わないカードなどなく、毎回全てのカードをゲームで使うのだから、何度も遊べるというもの。サプライの組み合わせはほぼ無限といってよく、展開もさまざまだ。
もうひとつすごいところは、プレイ時間の短さ。普通のゲームなら余程軽いものでなければ45分程度はかかるもの。これが、ドミニオンになると、なれれば20分程度で1ゲーム終わってしまい、逆にカードの準備の方が時間がかかるくらいだ。

ドミニオンは、ドイツボードゲーム業界において、初めて3冠に輝いた。
これは製作側にも影響を与えたに違いない。ゲーム業界では新しいアイデアがヒットすると、必ずフォロワーを生んできたからだ。
こうして、ドミニオン後雨後のたけのこのごとく、大量の亜流が生まれることになる。

ドミニオンの功績は、新しいゲームシステムを作り出したこと、それも、短時間で遊べて飽きの来にくいものを。

そして、ドミニオンの罪は、言葉にしにくいが、短時間で繰り返しプレイできるゲームこそが良いゲーム、という印象を周りに与えているところ。亜流が多く生まれることは、それを表す最たるもの。

一つの傑作は多くの後続を生む。それらは、もちろんその傑作を追い越さんとするために生まれるのだろうが、新しいもの労なくして生まれるものではなく、借り物のシステムがプレイヤーに飽きられれば寿命を短くするだけだ。

面白く、新しいものを作るのは難しい。が、今あるシステムに手を加えて出すだけの状況になるのは喜ばしくない。

気持ちはわかるが [雑感]

ゲーム会に参加すると、異様にテンションが高い人が居ることがある。
せっかくのゲーム会への参加、同好の士の集まりとはいえ、ちょっと待ってほしい。
通常のゲーム会において、参加メンバーが全て面識のある人なら、多少ハメを外すのは解る。が、初対面の人もいるだろうし、まだ良く知らない人もいるだろう、そういったとき、その人に対する印象は、僕にとってはあまり良いものにはなりえない。

僕はゲームを楽しみたいのであって、異様なテンションの中遊びたいわけではないのだ。
確かに気分が高潮し、声高になることはあるかも知れないが、あくまでゲームの中での一時のこと。インストから感想戦までひっきりなしに高いテンションでいかれては、こちらが参ってしまう。

遊ぶからには楽しみたい、が、楽しむからには周りの人にも楽しんでもらいたい。ゲームを遊ぶからには、それが自分の最終目標。ゲームに勝つ、負けるの結果は出れど、その過程は楽しくありたい。

次に同じ卓で遊びたくないなぁ、そう思われるような人には、自戒の意味も込めてなりたくないものだ。